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風の谷のナウシカ<プログラム説>
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プログラム説の概要であり、作中からの根拠となる
ナウシカらの行動に旧人類による関与を疑われる部分をまとめてみました
異論反論は認めます。

物語の前提に対する疑惑

風の谷のナウシカには大きなテーマとして、自然主義的なナウシカと、
人工的な作為の塊である墓所との闘いが描かれている。
この作品の中では、宗教や精神文化的な側面が大きな役割を果たしているが
これもまた同じ対比を担っている。現存する旧世界の宗教・精神文化は
擬似宗教の皮をかぶった科学に過ぎない。墓は神の皮をかぶった科学技術
によるプログラムに過ぎず、教団はそれに従う研究者のブレーンであり、
博士や皇帝、僧会は計画に協力する担い手である。僧会の超能力もここの
知識から由来している。また、同じく旧世界の遺物である巨神兵も神のように
振舞う裁定機能をもったプログラムに過ぎない。これらは全て人為的な産物である。
それと相反するように、ナウシカは自然の成り行きの中で生じた宗教精神文化
の申し子として、これら人為的な呪縛に抗うものとして描かれている。
彼女は奇跡かのように予言された存在と重ね合わせられ、それを証明するかの
ように多くのことを成し遂げる。彼女は不可解な直感的行動を通し、最終的には
腐海の謎を解くに至るばかりでなく結末において墓を壊し、旧人類の呪縛を完全に
断ち切るのである。
宗教すらもはや人工的な科学技術の世界においてナウシカだけが唯一無二の
”天然産”としてこの作品では描かれているように見える。
だが、そのナウシカにある唯一性の前提が大きく揺らぐ様々な事実が示唆されて
いるのであり、そこに旧人類の関与を感じさせるに足る根拠が提示されていると
考えるのがプログラム説の土台である。

ナウシカの思想的な位置づけ

ナウシカの思想と墓の思想はともに元になるモデルが現在の社会に存在する。
墓の思想は様々な面で西洋にある思想がモデルがあると思われる。
墓はまるでキリスト教の唯一神かのように、自らの考えにそぐわないものは
邪教と認定し排除してきた。また汚濁の中でしか生きられない現人類は認めず、
最終的には新たな人類のための環境が整い次第、滅びるように、
まるで原罪をもった欠陥のある存在として現人類を設計している。
また、墓所の計画は陰謀論的なフリーメイソンとして考えられる。
フリーメイソンはピラミッドを建築したエジプト人を模し、人類の行く末を
傲慢にも”設計”する選りすぐりの賢人達の集まりである。陰謀を実現する
ために、時には戦争を仕組み、時には大量の犠牲者を出すこともかまわない。
一方でナウシカは東洋の思想が中心に置かれている。
ナウシカはあらゆる生命に尊厳を認め、現在のあるがままの混沌を肯定する。
一切悉有仏性として、衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性や
神性が内在するというのはヒンドゥー教、仏教などの思想であり、汚濁の中でしか
生きられない現人類も、蟲たちをも認めているのである。
このように墓とナウシカの対比は現在の社会に置き換えると西洋世界を中心に
広まった一神教と、東洋を中心に広まった多神教の対比と全く同じものだと考えられる。

・思想の地理的な分布と偶然の貢献
ここでモデルとされているのは現実の思想の内容だけではないようである。
東洋と西洋を地理的な分布図でも模しているように見える。大陸の西側には
墓所があり、東側にもう一つの別の旧文明の遺跡であった古エフタルがあるとされる、
古エフタルがあったとされる領土は、ナウシカの風の谷と、巨神兵が発掘された
ペジテを包含し、青い衣と森の人もまたその国に由来する。
そこにはナウシカとの思想的な共通性も見られる。巨神兵という概念も各自に
裁定権をたくすという、多くのものに神的特権を認める多神教的な性格をもち、
青い衣の思想であり、王蟲や腐海の神聖視も自然崇拝的なアニミズムと言える。
偶然にもこれらの要素は結びつき、ナウシカに大きく貢献をする。ナウシカは、
森の人セルムや、東亜○製と刻印された巨神兵の協力を主に得て墓を粉砕する。
彼らの協力がなければこれは不可能であったはずだ。これらの地理的な分布図と、
思想的な共通性と、偶然の結びつきにより結果的な墓を壊す過程には
不自然さがあり、恣意的なものを感じさせる部分である。

・ナウシカの思想的な普遍性と結末の意図
ナウシカと墓の思想の位置づけはただの対比ではない。
この両者の立場は、現実における世界の宗教思想的分布図を二分するほどの
代表的な位置づけである。そこでナウシカの思想の独自性に疑問がつく。
我々の社会においてありふれた普遍的な思想であれば、それはどこであろうと
想定されうる思想の一つにしか過ぎないわけで旧文明でもナウシカのような
考えが存在してなかったと考えるほうが不自然ではないか?
であれば、旧世界と対峙していたと思われるナウシカの思想的な独自性など、
最初から存在しなかったと考えるのが妥当ではないだろうか?
むしろ火の七日間とは全く同じような東西の思想に分かれた争いだったのでは
ないか?仮にナウシカ本人が旧世界にあった片方の思想を背負って戦って
いたのだとしたら、ナウシカは最初から最後まで、旧人類の掌中を彷徨って
いただけと言えるのではないか?また、そうであれば最後の結末における
ナウシカの行動の偏向性、墓との対話における一方的な糾弾や自らの行動の
正当化は、作者が改めてナウシカと旧人類の共通性として相対的に位置づけ
ている場面と考えられるのではないか?もし違うのであれば作者はほんとうに
表面的に描かれてるように、一方的なナウシカの正義と正当性のもとに悪を
打ち倒す救世主物語を描きたかったというのだろうか?
結末部分で、旧世界についてさまざまな正義、さまざまな神が存在したと
わざわざ評している中で、そんな単純な正義の結末を作者が描きたいはずが
ないのは明白ではないだろうか?

科学により代替可能と示唆されているナウシカの行動

次にナウシカらの奇跡的な行動や予言のような天然の事象と思われたものが
科学技術によって代替可能である事実が示唆されている場面を紹介する。

・蟲とナウシカの不可解な行動
これが示唆されている代表的なものが蟲たちの不可解な南進である。
この不可解な行動は直感的本能であり、蟲たち本人の論理的な理解を超えて
いるため、ナウシカに南進の理由を問われても王蟲は説明がつかず、沈黙する
だけであった。しかしその不可解な直感的本能が、結果的に腐海を広げるのであり、
全ては1000年以上も前に作り出された人造生物の中にプログラムされていた
本能なのであるという衝撃的な事実が途中で判明している。
ナウシカの突飛な行動はほとんどが不可解であり、直感的な本能として
描かれている。王蟲と一体化しようとしたことも本来は自殺行為であり、
常識からは考えられない行動である。しかし、その不可解な行動が結果的に
彼女に腐海の謎を解かせる様々な洞察を与え、そのような不可解な行動の
積み重ねが結果的に墓を破壊するのである。
これらナウシカの直感的本能に基づく行動は、人造生物である蟲たちの南進と
なにが違うのであろうか?違うところは何一つ提示されていない。いくら人造生物の
生命にも尊いものが産まれたというのであれ、蟲たちは南進を尊い使命かのように
感じながらも、その実態は純然たるプログラムの意志に過ぎないのである。
ナウシカの尊い使命感はどうであろうか?少なくともその裏にあるものを保証する
描写は一切存在しない。また、それだけに留まらない共通性がある。

・蟲たちと予言に従った人々の類似性
”予言”は、事前に計画が敷かれていること(プログラム)を示唆しているとも言える。
それだけではなく予言のもとに集いし、さまざまな人々(森の人や、僧正)の協力により
ナウシカが助けられ、大いなる偉業(墓の破壊)を成し遂げるさまが似ている場面がある。
それは示し合わせたように南進するさまざまな蟲(斥候役すら存在した)たちの連合と
粘菌の腐海組成と瓜二つではないだろうか?
(蟲たちにとどまらず、粘菌をつくり偶然戦争に利用した結果、粘菌が増殖して
偶然暴走した要因を作った人類も、このプログラムに組み込まれていた可能性すらある。)
これは、さまざまな生物の固体が連携して何かを大きな計画に従事させることすら、
科学技術的に可能であるという示唆であり、予言のもとで行われたナウシカや
森の人や巨神兵らの奇跡的な共同作業による墓所の破壊にも写し合わせられて
いる場面だとも考えられないだろうか?

・予言と邪教に対する墓一派の過剰な反応
また、これらがプログラム的な介在であると疑われるもう一つの理由がある。
予言や邪教やナウシカに対する墓所側の反応である。
まず青い衣から広まった邪教は(土鬼王時代の宗教)がただの平和宗教で
救世主を予見してただけとも受け取れるが墓所の反応はただごとではない。
邪教が広まった時代、神聖皇帝は間違った考えが広まった世を嘆き、自ら荘園から
出て土鬼王を潰している。そして墓所の教団と博士のさらに下に位置する僧会は
これらを邪教として弾圧し、地上から抹殺しようと努力している。
青い鳥、白鳥伝説、王蟲を神聖視するのは邪教にある古い教えだと僧会の僧侶が
語っているが、なぜ墓所側の皇弟がこれらの教えや、青い鳥の伝説とナウシカを
恐れる必要があったのだろうか?墓所側のリーダー格が真剣に食い止めようと
するほどの脅威であることは明白だ。この擬似宗教(科学技術の計画)を背景に
持つ神聖皇弟が恐れる必要がある予言がただの予言なはずはなく、システムを
揺るがすほどの脅威があると予想されていたのは間違いない。
とすれば、彼らが脅威として感じた予言とその使徒が結果としてもたらした
墓の消滅という事態は、本当にただの偶然の産物だったのであろうか?
青い衣の予言の中に最初からここまでの計画が仕組まれていたと考えられる部分である。

・墓システムが予測した不具合とその対応の限界
旧世界により作られた墓というシステムが恐れたこの予言と救世主が、ただの
自然現象的な不具合に過ぎず、結果的な墓所の破壊もただの自然の勝利で
片付けられるかも大きな疑惑がある。
これよりはるか前に墓(旧人類)の理解と予測を上回った不具合があった。
それが彼らの文明の最盛期に起こった火の七日間という人災であり、それは
自然が彼らに与えたものではなく高度な文明の衝突が壊滅的な打撃を
与えたのである。1000年ものあいだ環境と生物をコントロールし、生命を
意のままに作り出してきた文明は自然の不具合には対応できないはずがない。
それまで高度な文明による人災以外で崩れたことのない強固なシステムが、
まともな科学力も持たない未開人の宗教的奇跡で崩れるのも妙な話ではない
だろうか?旧世界では宗教的奇跡すら再現可能なのだ。
ここでもナウシカが単純に自然の申し子であると考えることに疑問がつくのである。

・常人とは異なるナウシカの特別さ
またナウシカの特別さは普通の人間をはるかに超えるものである。
彼女は庭園の人造物であるヒドラと生身で対峙し、洗脳されないですむばかりか、
彼女だけが真実を見抜く場面が出てくる。lこれは人間の中でも最も精神力が
発達しているはずの火を捨てた森の人では決してできないこととして描かれている。
人造物であるヒドラに対する人間の精神能力の優位性に対しても
大いに疑問が付される部分であるにも関わらず、ますますナウシカの特殊性が
浮き上がるわけだが、なぜ彼女だけがヒドラと対峙することが可能なのか?
なぜ通常の人間にはできないことを出来るのか?いくら突然変異だからとしても、
今まで提示された様々な疑惑をもってすればほんとうに彼女は人間の中から生じた、
予言と共に登場する使徒、救世主という設定を安易に受け入れることができるのだろうか?
彼女のこの特殊性にも旧世界の裏づけがあるのではないだろうか?

まとめ
最後に改めてこの作品のテーマに疑問をはさんで締めくくりたい。
旧文明の科学技術により、宗教的な奇跡すらも再現可能な世界観において
予言や、救世主伝説が転がっているほうが実は不自然ではないだろうか? 
物語の主軸は予言が実現する過程であり、結末に近づくほど奇跡的な演出が
直球で提示されていく。ナウシカはますます不可解な行動をとるようになり、
周りのナウシカ賛美も止まることを知らない。墓に対する一方的な糾弾にも
不自然さが漂っている。オウム事件後に完成したこの作品で、作者の意図は
本当にそこにあるのだろうか?この直球の表現をそのまま受け取るべきなのだろうか?
どうも、このように描いたのには裏があるように思えてならない。

また、この作品の醍醐味の一つは旧人類の呪縛の迷路がどこまで広がるのか
というミステリーである。腐海の謎に始まる旧人類の科学技術の謎と、
今の人類や世界に課せられた陰謀は果たして墓だけで終わるのだろうか?
それがナウシカにまで及んでないと言う保証はどこにもなく、
逆にナウシカと旧世界にある関連性は不自然に多く提示されているのである。

追記
以上、これらのさまざまな疑惑を根拠にナウシカに対するプログラムの介在を
色々と空想することは可能ですが、それは空想の域を越えないのであり、
証明は不可能です。であるからして、逆もまたそうで、反論をプログラム的な
空想の部分でしようとするのは無駄に終わるのかもしれません。
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